ティロ脳

まどマギ考察を言い訳にした屁理屈サイト。でも全ては愛なので許してください。

叛逆後の世界において、暁美ほむらはどうやって円環の理を守るのか

 先の記事「インキュベーターの感情について」で私は、インキュベーターは彼らなりの感情を持っている、と結論付けました。
 もしかしたら同じようなことを考えていた人が、この物語の登場人物にいるかも知れません。暁美ほむらです。



 ほむらは、まどかを助ける目的で同じ時間を何回もループしました。失敗を重ねるうちに次第にその思いは先鋭化していき、周りの人を、まどか契約阻止の役に立つか邪魔になるかだけで見るようになりまた。とは言え、彼女には感情がありますから、まどか以外の人の死に対しても、胸が張り裂けんばかりの悲しみを感じたことでしょう。人から誤解を受けたときには、苛立ちや失望を感じたことでしょう。それでも感情を押し殺し、目的達成のためだけに行動した結果、周りからは冷たくて非情な人間と見られてしまいます。
 また、ループを重ねるごとに、死に対する感覚もずれていきます。前の時間軸で死んだ人も、時間遡行すれば次の時間軸で生きている。インキュベーターとは違った意味で、死=消滅とは捉えられなくなったのです。
 そして、ある日ほむらは気付いてしまうのです。「私、インキュベーターと同じだ」と。これは彼女にとってショックだったでしょうが、まどか改変後の孤独な彼女がキュゥべえに歩み寄るきっかけとなったのかも知れません(いや、マミや杏子に歩み寄れよw)。また、より深く彼らを理解するうちに、彼らにも感情があることを見抜いたのかも知れません(だから、マミや杏子と理解し合えよw)。そしてそれが後々、あるアイディアへと繋がった可能性があるのです。


 『叛逆の物語』において、ほむらの悪魔化を目の当たりにしたキュゥべえは、「これではっきりした。君たち人類の感情は、利用するには危険すぎる。こんな途方もない結末は、僕たちでは制御しきれない」と言って逃げ出します。
 しかし考えてみれば、彼らが魔法少女の感情エネルギーを利用するのは、(まどか改変後の世界では)今回が初めてです。せっかく「魔法少女の希望から絶望への相転移」という、より効率的な感情エネルギー回収先を見つけたのに、たった1回の失敗で投げ出すのは、彼ららしくありません。冷静に考えれば、ほむら以外の魔法少女に対しても実験を繰り返すなり、人間の感情を解析し直して、制御できるだけのテクノロジーを新たに開発するなりすれば、いずれは円環の理を支配する方法を見出すことができるはずです。
 しかし実際の彼は、そこまで考えが及ばず、一時的かも知れませんが逃げ出してしまいました。彼らの性質からは考えられない、非合理な行動です。その理由として考えられるのは、人間の感情エネルギーの底知れなさに、恐怖を感じたからではないでしょうか。恐怖は判断を狂わせるからです。
 そしてほむらは、その様子をしっかりと観察していたのです。



 さて、ほむら叛逆後の世界がどのようなものなのか、作品中に明言されていませんが、「私たちの世界に沸いた呪い(魔獣?)を処理するには、これからも、あなたたち(インキュベーター)の存在が必要」なのは確かです。つまり、インキュベーターと魔法少女は共存関係を続けなければならないのです。
 しかし、彼らを野放しにしておけば、先ほど述べたように、やがては円環の理を支配する方法を見つけてしまうでしょう。それはほむらにとって、決して許されることではありません。とは言え、彼女一人で全てのインキュベーターの行動を抑えるのは不可能です。
 そこでほむらは考えます。「多分、インキュベーターも恐怖を感じることがある。しかも、彼らの意識は繋がっている。たった一体に恐怖の記憶を植え付ければ、全てのインキュベーターの行動を制御できるはずだ」と。彼女の記憶操作の能力を使えば、それも可能だと思われます。


 この予測が正しいとするならば、ほむらがインキュベーターに植えつけた恐怖は、次の二つが考えられます。
 一つは、ほむらが悪魔化した際に彼らが感じたであろう、魔法少女の感情を利用することに対する恐怖です。あるいは、円環の理に手を出すことに対する恐怖かも知れません。もう一つは、ほむらに恐怖を植え付けられた個体を、他のインキュベーターが処分しないようにする恐怖です。
 これらの恐怖が持続する限り、彼らはより効率的なエネルギー回収方法が分かっているにもかかわらず、円環の理に手を出すことができないはずです。そして、この精神疾患状態から脱することができないはずです。かくしてほむらは、魔力の続く限り円環の理を守り続けることができるのです。


 『叛逆の物語』ラストにあるボロ雑巾キュゥべえの真相は、こんな感じなのかも知れません。





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インキュベーターの感情について

 やっと考察記事、一本できました。何となく文章が荒れている気がしますが、気にすると永久にスランプから脱出できそうもないので、とりあえずこれで。


 で、今回は「キュゥべえ、お前絶対感情あるだろ」問題についてです。
 彼らの言動を見てみると、そう思わざるをえない場面は少なくありません。しかし、ある程度の知能があれば、感情が全く無くともあるかのように振舞うことは可能でしょう。人類との長い付き合いの中で、感情表現というコミュニケーションスキルを身に付けたことも考えられるからです。あるいは人工知能のように、ある程度の感情表現がプログラミングされているのかも知れません。いずれにせよ、彼らの表面的な言動から感情の有無を判断することは、非常に困難と言わざるをえません。
 それでも、彼らが置かれている立場を人間と置き換えることで見えてくるものがあることに気付いたので、少し考えてみたいと思います。



 「ずっとあの子たちを見守りながら、あなたは何も感じなかったの? みんながどんなに辛かったか、分かってあげようとしなかったの?」
 共感力の高いまどかにとって、キュゥべえの所業は、感情を持たない冷酷なロボットのように見えたのでしょう。しかし彼女がそのように評価したのは、置かれている立場が彼らとは決定的に違っていたからです。もし私たち人間が、インキュベーターと同じ立場に立ったならどう感じるでしょうか。キュゥべえ自身の発言から検証してみます。


 「ソウルジェムになった君たちの魂は、燃え尽きてグリーフシードへと変わるその瞬間に、膨大なエネルギーを発生させる。それを回収するのが、僕たち、インキュベーターの役割だ」
 この言葉は、インキュベーターの唯一無二の行動原理を表しています。私たちも、宇宙の寿命を延ばすことに心から賛同するならば、そしてその手段として、魔法少女を利用するのが最適と判断するならば、彼女たちの嘆きや悲しみに耳を貸すことはないかも知れません。それでたとえ心が痛んだとしても、言動が変わることはないはずです。


 「そうやって過去に流された全ての涙を礎にして、今の君たちの暮らしは成り立っているんだ。よそれを正しく認識するなら、どうして今更、たかだか数人の運命だけを特別視できるんだい?」
 全体の利益のためには一部の人間が不利益を被るのは仕方無いという、典型的な功利主義であり、一定の説得力を持っています。ただ、自分が不利益を被る立場になっても同じ主張を続けることができる人は、ごく少数でしょう。そういった意味で、人間にとっては根拠の薄い理論なのですが、多分インキュベーターなら喜んで全体のために死ねるんだろうな、という気はします。


 「例えば君は、家畜に対して引け目を感じたりするかい?」
 家畜とは、何らかの利益を得るために飼われている動物です。利益のために家畜が死ぬことに対しては、私たちもいちいち同情しません。インキュベーターは人類を家畜と見なしているのですから、たとえ彼らに感情があったとしても同情することは無いのです。
 そこには、相手を一段低い存在と見なす心理が働いています。私たち人間も、自分より低い存在に対しては、同情を感じることが難しくなるでしょう。この心理が他民族などに対して働いた場合、奴隷制度や残虐行為が正当化されてしまうことは、歴史が証明しています。
 そういった意味で思い出すのが、8話のホストの会話です。彼らはお金を貢いでくる女を、人間より一段低い存在である犬と見なすことで、非道な振る舞いを繰り返します。彼らとて、相手を自分たちと同じ人間と見てしまったら、同様なことはできないからでしょう。
 彼らの会話を聞いたさやかは、決定的に追い詰められて魔女化してしまいます。と同時に、視聴者をも追い詰めているシーンだと思います。と言うのも、これ以降、キュゥべえの鬼畜っぷりが次々と明らかにされていきますが、私たちは彼らを単純に非難できなくなるからです。人間だって、それぐらい酷いことをしているじゃないかと。
 そうやって人間の弱みを見せつけられた後に、インキュベーターの目的や考えが明かされますから、私たちは彼らの言い分に反論できなくなってしまうのでしょう。何とも上手い演出です。


 話が少し逸れました。以上から言えることは、たとえ感情を持った人間でも、インキュベーターと同じ立場に立てば、(多少心が痛んだとしても)彼らと全く同じ言動を取るであろうということです。逆に言えば、彼らが感情を持たない証拠は、これらの発言からは見つからないということにもなります。



 インキュベーターが感情を持たないように見えるのは、死や身の危険に対する恐怖心が見られないことも挙げられます。嫌悪感ぐらいはあるようで逃げることもありますが、それも「体を潰されたらもったいない」という程度。これについては、彼らは全ての個体の意識が繋がっていることで、説明できるかも知れません。
 そもそも、動物が死に対して恐怖を感じるのは、自分自身が消滅するからでしょう。しかし、インキュベーターは他の個体と意識が繋がっているため、その個体が潰されても自分自身が消滅するわけではありません。また、動物は肉体的苦痛に対しても恐怖を感じますが、肉体的苦痛はその個体が死なないための警告でもあります。個体の死がほとんど意味を持たない彼らにとって、肉体的苦痛を感じる器官は不要かも知れません。
 ちょっと想像が難しいのですが、普通の人間であっても、意識が全体に繋がっていて自分自身が消滅する恐れがなく、かつ肉体的苦痛を感じなければ、インキュベーター同様に死や身の危険に対する恐怖を感じないのではないでしょうか。


 また、インキュベーターが何事に対しても泰然としていられるのは、彼らが感情を持たないためだと思われるかも知れません。しかし、彼らが地球に来て以来体験したものは、全ての個体に共有されて蓄積されていきます。つまり彼らは、圧倒的に豊富な知識や経験によって、少々のことでは心が乱されないようになったとも考えられるのです。
 これを人間に置き換えて考えるならば、人生経験の豊かな老人や悟りを開いた賢人が、常に平常心でいられるようなものだと言えるかも知れません。


 以上のことからも言えるのは、彼らの言動を見る限り、インキュベーターが感情を持たない証拠は、何一つ見つからないということです。



 それでは、インキュベーターに感情が“ある”とした場合、どんな感情構造を持っていると考えられるでしょうか。


 最初にこれを挙げるのは卑怯ではあるのですが……「you are not alone(テレビ版の公式ガイドブック)」で加藤英美里さん(キュゥべえ役の声優)が明かしていたように、12話でキュゥべえが「君は、本当に神になるつもりかい?」と叫んだのは、彼が多少は驚いたからだとのことです。「初めて人類を発見した時は驚いた」とも言ってましたし、インキュベーターは少なくとも、想定外のことが起こった場合に“驚く”という感情を持つことは確かなようです。
 また、ほむらが悪魔化した際に逃げ出したのも、何らかの感情の動きがあったからなのでしょう。多分、人間の感情エネルギーの底知れなさに恐怖を感じたのかも知れません。客観的に見れば非合理な行動にも思えますので、この一時的な判断ミスは、感情ゆえだと私は考えています。もっとも、まどか改変後の彼らにとって、魔法少女の感情を利用するのは初めての経験であり、無理からぬことではあるのですが。


 それでは、彼らは愛情も感じるのでしょうか。
 そもそも、私たちが愛情を感じるのは、その対象が「他とは取替えられないかけがえのない人(もの)」と感じるからだと思います。かけがえない人(もの)だからこそ、人間はその対象を特別視し、それが失われた時には悲しむのです。
 話は逸れますが、まどかの願いの根底にはこの愛情がありました。その対象が博愛という形で広がってはいますが、個々が「他とは取替えられないかけがえのない人(もの)」であることに変わりはありません。だからこそ、たとえ見知らぬ魔法少女に対しても、彼女は個人の祈りと絶望を全て受け止め、慰めることができたのです。だからこそ彼女は、救済の神となり得たのです。もし円環の理に愛情が無ければ、それは単なる魔法少女消滅のシステムでしかなかったでしょう。
 それに対して、インキュベーターには個の概念が希薄です。全ての個体の意識が繋がっているため、彼ら同士では自と他の区別すら無いのかも知れません。また、人類に対しては個体識別はしていても、単なるエネルギー搾取の道具としか捉えていません。いずれにせよ彼らは、他者に対して「他とは取替えられないかけがえのない人」と感じることはないでしょう。つまりインキュベーターは、私たちが持つような愛情という感情は、持ちようがないと考えられるのです。
 ほむらの言う通り、彼らにとって一番理解できない人間の感情が、“愛”なのかも知れません。



 以上、ここまで見てきたように、インキュベーターは彼らなりの独特な感情構造を持ち合わせている、というのが私の結論です。
 こうなると「ところが生憎、当の僕らが感情というものを持ち合わせていなかった」「僕たちの文明では、感情という現象は、極めて稀な精神疾患でしかなかった」というキュゥべえの言葉と矛盾してしまい、困ったことになるのですが……。
 ここは、彼らが真実を小出しにしか語らないという性質を鑑みて、「インキュベーターは感情を全く持たないわけではないが、感情に囚われて取り乱したり、非論理的な判断をすることはない」ぐらいを落とし所としてはいかがでしょうか。





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オルゴール風『Inevitabilis(ほむらのテーマ)』

 ご無沙汰してます。前回の更新から1ヶ月経ってますね。
 『異説 悪魔ほむら論』を書き上げたところで、プチ燃え尽き症候群になってしまいまして……。書きかけのネタもいくつかあるのですが、どうも筆が進まなくなってました。日頃文章を書く習慣がないくせに勢いだけでブログを立ち上げたので、息切れしてしまったかも。
 とは言え、まどマギへの愛が薄れたわけではありません。先月のワル響に触発されて、私も梶浦さんの音楽を演奏したりアレンジしてみたいと思い立ち、20年以上前に買ったキーボードとシーケンサーで、とりあえず簡単な1曲を打ち込んでみました。音楽付スライドショーにしてYouTubeに上げたので、よろしければ見てください。雰囲気ぐらいは出てると思います。


Inevitabilis


 実は私、極度のデジタル音痴なんです。仕事場で何度も同じこと聞いて、後輩半ギレさせるぐらいには。
 で、楽器屋に言われて買った機材やソフトの説明書は、カタカナが全て意味不明で完全にお手上げ。メーカー各社に問い合わせたところ、手持ちのソフト(スコアメーカー)では、楽器が古すぎて演奏できないことが判明。結局、スコアメーカーで作った楽譜を見ながら、古いシーケンサーに打ち込み直すという二度手間で、やっと曲の製作に着手……。
 で、曲はできたものの、パソコンへの録音方法が分からない。知り合いに家に来てもらって、どうにか録音だけは可能に。それを元に、スライドショーぐらいは自力でできたのですが……。


 あの、皆さん本当にエライと思うのですが、新規でYouTubeのアカウント取って投稿するのって、自力でされてるんですか? アドレスって書いてる所に電話番号打ち込むし、ニックネーム書く所無くてそのまま本名晒されるし、確認コードの所で弾かれて前に進めないし、これも全くお手上げ。半ギレの後輩に思いっきり頭を下げて、付きっ切りで何とかしてもらい、やっとこさ先ほど投稿です。
 ホンマ疲れた……もうヤダ……。


 あと、昔作った曲のデータが残ってたので(若い人は分からないでしょうが、2DDフロッピーディスクです)、気晴らしでもうひとつスライドショー作りました。タイトル『High school Memories』は、「私が高校時代に作ったオリジナル曲」という意味です。


High school Memories





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